2020年8月

UNN20200801西田

西田幾多郎の世界新秩序は大東亜共栄圏の根拠となり、八紘一宇を推進することとなった。戦後批判されたが、内容はそんなことはない。

絶対矛盾的自己同一とはどう解釈すれば良いのか。西田幾多郎の哲学の最も難解な部分だ。

UNN20200815西田

西田哲学を理解するためにはカントの哲学をある程度理解しておく必要がある。純粋経験の彼の考えには主観と客観の視点でコペルニクス的転回のことを言ったカントを理解

弁証法と即非の論理とはどこが違うのか。西田は自己であって自己でない。だから自己であるという論理を展開した。それが純粋経験だ。

philosophical reflectionとは「哲学的な反省」を意味する。non-reflective experienceとは「反省」のない経験で、prior to the subject-object split すなわち、主客未分の状態のこと。ということは

純粋経験とか絶対無の現実の場所「the ground of reality」は反省のまだないselfless experienceすなわち、自己のない経験で、主客未分の状態で、「私」を認識していない。

小回りの反省と大回りの反省だが、これは鈴木大拙の即非の論理を言っている。小回りの反省は西欧の哲学の考えで、大回りの反省が西田の考えだ。

UNN20200819ドイツのコロナ

日本のコロナの感染者は欧米に比べると一桁少ない。只フランスとかイギリスは1日あたりの感染者が日本と同じぐらいになってきている。何時になったら、海外から

ドイツ人は近場で休暇を過ごすことを覚えた。コロナのおかげで、従来のドイツ人の休日は今年の夏はいつもと違う。

ベルリンから日帰りできるRugenという避暑地にドイツ人が押し寄せ、今年は、南ヨーロッパンは行かないようだ。それと3分の1のドイツ人は夏季休暇を取らないようだ

今まではドイツのリゾートには客が来なかった。この夏から客がき出した。その代わり南ヨーロッパには今年はドイツ人は行かない。いやもしかしたら来年も行かない

ドイツ人はイギリス人に少し遅れて、海外に旅行するようになった。ドイツマルクの強さと寛大な休暇制度がそれに拍車をかけた。1968年までには西ドイツの人口の

Strength Through Joy 歓喜力行団(喜びを通じて力を )は、ナチス党政権下のドイツにおいて国民に多様な余暇活動を提供した組織である。そうした時代の面影も偲ぶことが出

UNN20200829 西田

西田哲学と反省 西田哲学の最も理解しがたい側面 哲学的反省は主客未分の反省のない経験に光を当てるために利用されている。

超越論的な反省 : 日常的な物の見方は、対象がまずあって、認識がそれに従うという暗黙の態度の上に成り立つが、超越論的観念論はそれを逆転させ、「対象がわれわれの

花を見るときに:Is there a self? そこには自己があるのか。 ここで言う自己とは対象(客観)のこと。カントにおいて、客観的妥当性を持つ対象(Object)とは、ありのままの

花を見ている反省前の経験を高次元の「私」によって構成されているものとして解釈する。そうした「私」がなければ始まるべき経験もない。だから「私」は経験のための

西田の言う純粋経験は「主客の未だ分かれない、知るものと知られるものと一つである。現実そのままの、不断進行の意識」であり、上田は「主客の枠組みが壊れ」その純粋

二次的な反省は現実の所有物を決めるための客観(Object 実体)をテーマ化するのではないのであって、むしろ、客観(Object 対象)の我々の経験のための可能性の状態をテーマ化

西田の哲学的自覚は反省の破れ(「覚」の経験)で始まる。ここから彼は我々の経験に対して可能性の状態を熟考する。このようにして西田の哲学的自覚はカントの超越論的な反省の

過激化した超越論的な経験 (哲学的な自覚) 絶対無(純粋経験)はそうした経験のための可能性の状態である。経験のための可能性の状態とは純粋経験であり「主客の未だ分かれない

カントの超越論的反省は客観は主観を通してしか見ることは出来ないと言っていて、西田はさらに主観客観は一つだと言って、純粋経験を提示したことを言っている。